ベェーベェー通信

 とある牧場のとある羊の書く日記。

人間の持つ「決断」はどこから生まれどう存在するか

 人間には、何かしら問題があるごとに、解決のために決断をする必要が生ずる。一個人が持つ決断の必要性は、この資本主義社会に於いて高まりを見せていることは言うまでもない。

 決断をする場面と言えば何があるだろう。パッと思い浮かんだもので言えば、結婚や就職、進学は大きな決断を伴う。大きな決断ほど後の将来を左右することだろう。重い病気になったらどうしようか。

 将来を左右しそうにない決断と言えば、ショッピングモールや百貨店で何を買うか、という決断はそれの内に入るのではなかろうか。もし、今晩のおかずが、ステーキからハンバーグに変わったとしても、流石に将来を大きく変えてしまうことにはならないだろう。

 森鴎外の名著に「高瀬舟」がある。安楽死の是非と、足るを知ると言うことを世に問いかけた作品で、長らく世に議論を巻き起こした。

 鴎外の娘が病に冒され、安楽死をさせると言う決断をしたが、ギリギリになって娘が回復したため殺すことは結果的になかった。軍医でもあった鴎外のこの決断がこの作品を生み出した。医者の知識もあったが故に、かなりの葛藤があったに違いない。

 他の決断を借りるなれば、芥川龍之介の「羅生門」だろう。平安時代の乱れに乱れた環境を背景とし、明日から生きていくこともままならない下人が、飢え死にをして正義を貫くか、悪として盗人となり生きて行くかを羅生門の老婆によって、最終的に生きて行くための大いなる決断、悟りとも言える決断をするのである。結局、長い間の葛藤の末、盗人として生きて行くことになる。

 ドストエフスキー罪と罰を紹介したいのだが、書きたいことが多すぎるのでやめておく。興味のある方は読まれたし。人生の大きな糧になること思う。

 決断というものは、迷いから生まれる。その迷いは実に混沌としたもので、一度その中に入ってみると、何が正しくて、何が悪いことなのか分からなくなってくる。迷いの流れは川のようではなく、あらゆるところに何かの決断が渦巻いており、人間はどこへ転び、どのようになるか分かったものではない。しかし人間の葛藤した行く末は、必ずどこかにゆきつくのである。

 葛藤して、迷いの流れに巻き込まれ、最終的に決断したことが正しいとは言えない。勿論、その人にとって良かったと思えることになるかもしれない。

 物理学で言う量子力学の世界では自然というものに、不確定性が働いているということだ。不確定性があることで、私たちは存在できるらしい。今、不確定性のスイッチを切るとどうなるか。あなたの座っている場所はつぶれてしまい、永遠に地の底をさ迷うことになるだろう。

 意外にも物理学というものは、人間の考えることに対応できることがある。もしかしたら、迷いと言うことの混沌、すなわち不確定性があることによって、決断は存在できるのかもしれない。不確定性があるということは、やはり、決断はどこへ転ぶのかわからないということである。

 迷いと決断は表裏一体。人間自体が混沌の具象のようなものであるから決断も迷いも永遠に人間という形で存在することだろう。人間は生きる限り迷いの流れを進んでいかなければならない。人間が死を迎える時、安らかな顔になる。人間として迷いの中をさ迷うことの責任から逃れられるからである。すなわち、迷いも決断も一過性のものではなく、生きる限りそこに存在するのである。

 #「迷い」と「決断」

 こんなに真面目になったのは久々のことです