ベェーベェー通信

 とある牧場のとある羊の書く日記。

Googleゲーム


 新発見!Googleゲーム

 知っている人もいるでしょうけど、新発見をしました。

 スマートフォンで調べたりしますよね。でも接続が切れたら、残念。私の場合は急いで家に駆け込んでwi-fiを使います。町中にもあるようですが...

 そこでです。一回はこれ、目にしたことありますよね?

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この恐竜は一体なんだろうか...

 ずーっと不思議に思っていたのですが、この恐竜(ごじらかな?)をふと、ポチッとおして見ると...

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 道が現れ、恐竜が動き出すという!? なんともビックリです。そしてこれが

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 障害物ジャンプという、なんとも懐かしいようなゲームとなるのです。(🌵に当たってゲームオーバーしましたが) タップするとジャンプします。

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 一度本気で挑戦してみますと、3回目でスコア1540!(凄いのかわかりませんけども。)

 

 

 暇潰しにどうでしょうか。他に発見しましたら、お知らせします。

Wiki落語「宿屋がたき」

 


桂文枝「宿屋仇」

大阪の日本橋の宿屋に万事世話九郎という侍が「昨晩の宿は、駆け落ち者がいちゃいちゃするわ、巡礼が念仏を唱えるわ、相撲取りが大いびきをかくわで、夜通し拙者を寝かしてくれなかった。今宵は静かなところで休みたい」と言って泊まった。後から来た伊勢参り帰りの喜六・清八・源兵衛の三人連れ、明日は故郷の兵庫津に帰るので一晩芸者を呼んで騒ぎたいと泊まったが、これが事もあろうに侍の隣部屋。

果せるかな、どんちゃん騒ぎに侍は「伊八、伊八!」と手代を呼び、「これでは寝ることが出来ぬ」と苦情を申し入れる。伊八の「どうぞ、お静かに」の一言に、三人は「何抜かしやがんねん。そんなにやかましいンなら他の部屋にとまったらええねん」と息まくが、「それがどこも部屋がふさがってしまいまして、……それに相手はお侍でっせ」の一言で、「ええっ! 侍かい。そら相手悪いな」とやむなく騒ぎをやめ、「けった糞悪い。寝てこましたれ。おい! 床取ってくれ」と不貞寝(ふて寝)を決め込む。

だが、なかなか三人は寝られない。寝物語に始めた相撲の話がいつの間にか床の上で相撲を取る羽目になり、またしても大騒ぎ。怒った侍が再び伊八を呼びつけ苦情を言う。伊八の注意を受け、それではと三人が始めたのは色事の話。うち源兵衛が語りだしたのが、三年前に武士の人妻とねんごろになった挙句に殺人を犯してしまった自身の体験であった。武家の奥方に言い寄られて一献傾けていたところを家人に見られ、無礼者、と切り捨てられるはずが、ひょんな塩梅で源兵衛が相手を斬り殺したうえ、邪魔になった奥方も斬って、事のついでに大金を持ち逃げしたという話。「お前らもこれくらいやってみろ」と源兵衛は自慢する。「ええ、えらい奴ちゃなあ。色事師や。源やん(源ちゃん)は色事師! 色事師は源やん!」とみなで囃したてる。

すると隣の侍がまた伊八を呼び、「拙者、三年前妻と弟を殺められ、仇を討たんものと旅しておったが、今こそ分かった。隣の源兵衛と申す男こそ我が求める仇である。連れの者と一緒に今すぐ討ち取る!」。驚いた伊八が隣室に駆け込み、その事を話すと源兵衛は青くなり、「あの話は三十石船の中で聞いただけだ」と言うも、侍は、今さら言い逃れは許さんと相手にせず、「されど、死人を出して宿に迷惑をかけられぬ故、明朝、日本橋にて出会い仇といたす。それまでは三人をとり逃がすでないぞ。でなければ、宿屋の主人・奉公人は勿論、伊八、その方も首がないと左様心得よ」と言い出したから大変。伊八をはじめ宿の者らは三人を取り押さえ、柱に縛り付けてしまった。

すっかり震えあがり、しょげかえった三人に対し、侍はゆうゆうと眠りにつき、翌朝、出立に際し伊八が「縛り上げたあの三人をいかがいたします?」。「ムウ。好きにせよ」。「もし、それはどういう事だんねん? 仇ちゃいますのかいな」。「仇……?アハハハ。伊八許せ。あれは嘘じゃ」。「嘘!?……もうし、ええ加減にしとくはなれ。わたい、三人逃がさんように夜通しおきてましたんやがな。何でそんな嘘つかはりますねん?」。侍は笑って「ああ言わねば、身共を夜通し寝かしよらぬ」

 

Wiki落語「子ほめ」

隠居の所へやってきた八五郎。入ってくるなり、『只の酒飲ませろ!!』と言って隠居を仰天させた。実を言うと、これは『只(タダ)の酒』ではなく『』の聞き間違いであったのだが、八五郎の態度に隠居は呆れ、『口が悪いと損をするぞ』と忠告した。

隠居は、『損をしたくなかったら言葉遣いを直せ』と八五郎にアドバイス。道で知人に出会ったら、相手に年齢を尋ねて相手が答えたらそれより若く見えるとおだてたりすれば一杯ぐらいおごってもらえるんじゃないか。例えば、50近くなら『如何見てもそこそこ』と言えば、男の厄年は41歳から43歳までなので都合10歳は若く見られたと相手は喜ぶと言うわけなのだ。

しかし、そう都合よく年配ばかりが通りかかるとも限らない。たまたま、仲間の竹に赤ん坊が生まれたので、祝いに行けば酒をおごってもらえると算段した八五郎は赤ん坊のほめ方はどうすればいいか質問をした。それに対し、隠居は『顔をよく見て人相を褒め、親を喜ばせばいいんだ』とアドバイス

「例えば、これはあなた様のお子さまでございますか。あなたのおじいさまに似てご長命の相でいらっしゃる。栴檀(せんだん)は双葉(ふたば)より芳しく、蛇は寸にしてその気を表すと言います。私も早く、こんなお子さまにあやかりたい』とでも言えば良いんだ。」

これで完璧。喜んで町に出ると、顔見知りの伊勢屋の番頭に会ったから早速おごって貰おうと声をかけた。しかし、『町内の色男』と逆に褒められご馳走をさせられそうになってしまった。気を取り直して歳を訊くと、何と相手は四十歳。無理やり四十五歳だと言ってもらい、いくつに見えると質問されて『厄そこそこ』。

完璧に失敗し、逃げ出した八五郎は今度こそおごってもらおうと竹の所を訪れた。しかし、いざ褒める段になって台詞がまったくでてこない。

おじいさまに長命丸飲ませましたな。洗濯は一晩では乾かず、ジャワスマトラは南方だ

最後の手段で年を尋ねると、竹が『(数え年で)一つ』と言うので、『一つにしちゃあ大変お若い、どう見てもタダだ』。


立川談志(七代目) - 子ほ


立川談志(七代目) - 子ほめ

 

音羽山今朝越え来れば…

       

       音羽山今朝越え来れば郭公梢遥かに今ぞ鳴くなる

  ホトトギス:時鳥、不如帰、郭公 と読むのだそうで。

        この峠 今朝越え来れば 郭公 風よ遥かに今ぞ鳴くなる

     

卯の花も風も過ぎぬわほととぎす…

        卯の花の過ぎば惜しみか霍公鳥

             雨間も置かずこゆ鳴き渡る

                    

       

 

         卯の花も風も過ぎぬわ霍公鳥

              雨間も置かず寂鳴り渡る

     

           夏の風長く吹きたるこの身には

                 ちと冷たくてエアコンを消し

                

ふみ一枚 一枚ほどの …

    みじかびの

       きゃぷりてとれば すぎちょびれ

               すぎかきすらの はっぱふみふみ

                             

         夏かぜに はっぱふみふみ と 言ってみる

          二回もいうと かぜも和らぎ

人間の持つ「決断」はどこから生まれどう存在するか

 人間には、何かしら問題があるごとに、解決のために決断をする必要が生ずる。一個人が持つ決断の必要性は、この資本主義社会に於いて高まりを見せていることは言うまでもない。

 決断をする場面と言えば何があるだろう。パッと思い浮かんだもので言えば、結婚や就職、進学は大きな決断を伴う。大きな決断ほど後の将来を左右することだろう。重い病気になったらどうしようか。

 将来を左右しそうにない決断と言えば、ショッピングモールや百貨店で何を買うか、という決断はそれの内に入るのではなかろうか。もし、今晩のおかずが、ステーキからハンバーグに変わったとしても、流石に将来を大きく変えてしまうことにはならないだろう。

 森鴎外の名著に「高瀬舟」がある。安楽死の是非と、足るを知ると言うことを世に問いかけた作品で、長らく世に議論を巻き起こした。

 鴎外の娘が病に冒され、安楽死をさせると言う決断をしたが、ギリギリになって娘が回復したため殺すことは結果的になかった。軍医でもあった鴎外のこの決断がこの作品を生み出した。医者の知識もあったが故に、かなりの葛藤があったに違いない。

 他の決断を借りるなれば、芥川龍之介の「羅生門」だろう。平安時代の乱れに乱れた環境を背景とし、明日から生きていくこともままならない下人が、飢え死にをして正義を貫くか、悪として盗人となり生きて行くかを羅生門の老婆によって、最終的に生きて行くための大いなる決断、悟りとも言える決断をするのである。結局、長い間の葛藤の末、盗人として生きて行くことになる。

 ドストエフスキー罪と罰を紹介したいのだが、書きたいことが多すぎるのでやめておく。興味のある方は読まれたし。人生の大きな糧になること思う。

 決断というものは、迷いから生まれる。その迷いは実に混沌としたもので、一度その中に入ってみると、何が正しくて、何が悪いことなのか分からなくなってくる。迷いの流れは川のようではなく、あらゆるところに何かの決断が渦巻いており、人間はどこへ転び、どのようになるか分かったものではない。しかし人間の葛藤した行く末は、必ずどこかにゆきつくのである。

 葛藤して、迷いの流れに巻き込まれ、最終的に決断したことが正しいとは言えない。勿論、その人にとって良かったと思えることになるかもしれない。

 物理学で言う量子力学の世界では自然というものに、不確定性が働いているということだ。不確定性があることで、私たちは存在できるらしい。今、不確定性のスイッチを切るとどうなるか。あなたの座っている場所はつぶれてしまい、永遠に地の底をさ迷うことになるだろう。

 意外にも物理学というものは、人間の考えることに対応できることがある。もしかしたら、迷いと言うことの混沌、すなわち不確定性があることによって、決断は存在できるのかもしれない。不確定性があるということは、やはり、決断はどこへ転ぶのかわからないということである。

 迷いと決断は表裏一体。人間自体が混沌の具象のようなものであるから決断も迷いも永遠に人間という形で存在することだろう。人間は生きる限り迷いの流れを進んでいかなければならない。人間が死を迎える時、安らかな顔になる。人間として迷いの中をさ迷うことの責任から逃れられるからである。すなわち、迷いも決断も一過性のものではなく、生きる限りそこに存在するのである。

 #「迷い」と「決断」

 こんなに真面目になったのは久々のことです